棟方志功・柳井道弘 略歴および資料

M&Y記念館2F展示釈迦十代弟子棟方志功作品群棟方志功略歴

1Fギャラリー中村隆茂彫書 齊木丘菫岡本裕と仲間 きりえの世界展写真家 岩合光昭立原位貫浮世絵版画作品展江口 進作品展棟方志功贋作展開館1周年春の特別展示| 「立原位貫 ギャラリートーク&実演」



棟方志功 略歴

1903年(明治36)年青森県生まれ。鍛冶屋に生まれ、小学校を出ると青森地裁の給仕になり、絵画を独学で勉強。1924(大正13)年に上京し、1928(昭和3)年の帝展で初入選した。この年から、古川龍生、川上澄生の影響で版画の道に入り、1936(昭和11)年国画展に出品した「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と交流する。
その影響から、独特の『板画』を発表し注目される。1952(昭和27)年ルガノ国際版画展で優秀賞、1955(昭和30)年サンパウロ国際ビエンナーレ版画部門最優秀賞、翌年ベネチア・ビエンナーレで国際大賞を受賞するなど、国際的に高い評価を受けた。1965(昭和40)年朝日文化賞、1970(昭和45年)毎日芸術大賞、文化勲章を受章した。1975(昭和50)年9月13日没。


資料2

はるけくも北に海ある国に来て南になりぬ雪の山々

谷崎 あれはなかなか面白い。
棟方 ああいう情景が......。
谷崎 字の組み合せが......。歌の組み合せが。あなたは字がなかなか面白いのね。
棟方 いやどうも。又板で彫ると、又字が別に動いて来ますな。
谷崎 俳句の、この間の何とか......あなたの。
棟方 原石鼎(はらせきてい)の「青天抄」ですか。
谷崎 「青天抄」。あれなかなか面白いね。
神林 「はるけくも北に海ある国に来て南になりぬ雪の山々」はどちらでお作りになった歌ですか。
谷崎 あれはね、鳥取の方に行った時。
神林 あの、戦時の疎開で津山にいらしった頃ですか。
谷崎 あの時とは違う。
棟方 津山もいいところだったな。鶴ヶ城という城があって。
谷崎 鶴山城!
棟方 ええ、鶴山城。いいところでしたね。あそこでわたくしの歌が一つあるんですよ。
おくられて来しを身ながらおくらるる人の悲しさかえりみもせず......(笑)。

谷崎潤一郎 歌 棟方志功 板「歌々板画巻」より


美作路 他

棟方志功 昭和27年2月他

美作は旅にしあれどかの君の在(いま)せし津山今は君なし
山(  )あれど河あれどもかの人のまさざる所かなしきばかり
おくられて来(こ)しを身ながらおくりたるひとのさびしさかへり見もせず
おくられて来(こ)しを身ながらおくりたる人のかなしさかへり身はせず
おくられて来(こ)しを身ながらおくりたるひとのさびしくかへりけるかも
おくられて来(こ)しを身ながらおくらるる人の悲しさかへりみもせず
別れ来(こ)し女(ひと)の身ながら別れたる女(ひと)の愛(かな)しみかへりみもせず
別れ来(こ)し女(ひと)の身ながら別れたる女(ひと)の愛(かな)しみ帰身(かへりみ)はせず
津山(  )なる城跡づたいさまよへどかのひとまさず雲流れつつ

どの道(  )も雪道となり暮れゆくや    大寒を美作にして別れゆく
春雪の不明の径(みち)を従へり       埋れ尽し濠の行方(ゆくへ)や春の雪
雪(  )解水満つるがまゝに海へ急ぐ    春の潮岩を越い来て過ぎゆけり
春潮の越え亦(また)越えて夕かな      春の風路次(ろじ)組み形に従へり
春(  )の雨ききてそのまま眠りけり


資料3

灼 楝 記
――雄神川、川辺凉しも吾妹子に楝(あふち)花咲く川辺凉しも、元義の歌

灼楝記(しゃくれんき)と読んでいたゞきます。――
去年の秋、招ばれて初めて津山に来まして、美しい人と、鶴山城趾に、まゐつて帰りましたよ。
美しい人は、男の方でもでしたが、矢張り身体に包まれて灼いたのは、志功は身体が、男だけに女でしたよ。
その女のところと、御名は、ナンボ強気の志功でも言へませぬが、まあ意地で探したつて不二、フタツナラヅつて女ですよ。

津山の御方ならもう「あの、あゝあの女か、成程さうか」と目に覚えあることと存じますよ。他所者の志功でさへ一目で参りましたからね。
それ程、志功が身体を灼いてゐるんですが、これは志功だけでその女は知らない事ですから、そこのところは、「婦系図」の言葉でないけれ共、こころ一杯に我儘さしてくださいませ。

今、その女の、居られる鶴山城そばから、十里弱のところ、奥津の湯元に来て、想ひを詰めて居るんですが、想い詰めつてココロも、ありがたいもんですね、一人だけにも関係なくアクビですからね。
昨夜は随分さわぎましたよ。
この湯の主人が、一緒に丸くなつて、飲み崩れてね。志功の布団に、くるまつて、奥様に呼ばれて、夜中に帰りましたよ。奥様つてどこの奥様も、身をもつて主人を大切にするモンですね。つくづく一人になつて感じましたよ。

「カロクダイスケサンナンデシンジヨフヤシタ......」つてわけで、よい気持に騒いで自分も忘れて、ねむつて仕舞ふなんて飲める方の徳と、有難さですね。

バスが、この半年そこそこで、仲々、便利になつて急行に乗れるのは公私ともにまた便利になりましたね。
丁度の雪で、上斎原までは、徒歩でしたよ。おかげで車では知らなかつた、よい景色が、身体にはいつて来てよかつたですよ。何が幸ひになるか、判らないもんですね。
上斎原まで二里の道中は、雪道で辛かつたですが、まんなかの部落で、後から「帰りました」といふ学校がへりの子供に、先を越されましたよ。
子供の足と、大人の足では、矢張り子供の足ですね。すれ違ひになつた時、Y氏は「お湯を熱くして待つてナ」と声を掛けて呉れましたよ。
Y氏の親類の子供だつたんですね。
囲炉裡の中に足を投げて呑んだ、そのお家のお婆さんの手づくりの御茶はよくもまれて細く、頃の湯で解けて美味しかつたでしたよ。
「サアー出掛け様、これから半分かなア」と志功が尋ねたら、その奥様が「百里の径は九十九里を以つて中ばとす。つて事を云ひますナ」と戒しめてくれましたよ。岡山の方は智慧者が多いと聞きましたが、本当ですね。

キンマを引いて来た青年にぶつかつて、重い荷物を救うていたゞきましたよ。
下斎(このあたりの方達は、かう言つてゐます)を通つて、上斎に、着いた頃から日が暮れかゝりましてね。村境の名所、立神(志功はリツジンと呼びたいですね)まで来た頃は、もうトップリでしたが丁度の月がまるで昼の様に照つて見事でしたよ。
下手な歌でも詠んでみたくなりましたね、〜上斎原の立神は......とヤリましたが、そばに歌人をも任ずる詩人のY氏が、喰つ付いてゐるのでニワカモノでは、この景色、この月に叱られる様な気がして、止めましたよ。
上斎原はこれで、三度です。
長屋門の立派な、Y家に迎へられて、志功は大好きなこのあたりの名鉱泉(ツルツルの湯)で沸かしてくれた、湯で身体を撫でていたゞいて、ヤレヤレと心身を喜ばせましたよ。
Y氏の皆々様は元気で、弟さんには御嫁さんが来て賑やかさが、加はつてゐましたよ。
一寸、身体を、そこねてゐた、姉様も、思ふ程の身病みでなかつた事も。ゆつくりな、こころ持に志功を訪ねて来て、くださつたY家の親類、近所の方々と一杯が始まりました。
こころ冲天に飛ばして、といふ事になりましてね、日本原から御一緒くださつた、彫刻家のS氏も至極の御機嫌で得意の児島高徳を、舞つてくれましたよ。
仲々の見事で、何度も何度もの所望に動いて「ヤラシテイタダキマス」といふので骨を折つてくれましたよ。
その夜は、明るい静かなよい晩でした。床に入つて間もなくさつき帰つた、Y家の分家の主人が「あまり三ヶ城山が、月で美しいから、行き戻りましたが、どうしても見せたく思うて来ましたよ」といふ、その景色の様に、キレイな想ひに、飛び起きて、その景色にも人にも打たれましたよ。
水車の米を搗く音を聞き乍ら、いつ寝ついたのか、子供の様に眠つて尽しましたよ。
話はさきにもどりましてね。
昨夜は、「シヨースケサン。」
今朝は、裏の宗匠です。家を発つてから、叶つた御点前の御茶を受けましたよ。
床は、寒山拾得図です。
馬谿写と署名してゐましたが、「バカゲタモンです」といふ大亭主振りでシヤレたあいさつでした。
静かな、唐画の灼き詰めたもので時代も深く、サビたものでした。

三畳台目の席に広蓋の古芦屋でせうか、よい沸音(にいね)を立て湯加減も頃合ひでした。
出された菓器を拝見して、よい一服を重服を乞うて許された、茶?は、この前ここに御邪魔した時、志功の釘彫りしたものを、自窯でヤイタものを御馳走に出してくださつたのでした。
御亭主の、こころもちを泌々して、清い瀬音に身心を洗はれた、朝の茶前は有難かつたでしたよ。
午後4時の急行バスが、発つまえに、この想ひ、おもひの津山をからみ、その女をからみ、お友達をからんだりして、この話を書きましたよ。
文にも、噺にもなつてゐませんが、まあ鶴山城の真下に居られるその女を、悲願の様に立てゝ、灼いて、こがれて、炎えてゐる無作法滅法の志功勝手な振舞を、その女は、おこる事と存じます。思ふ存分おこつていたゞきます。
椿高下のY詩人のところに、これから着いて、その女と会へる、話せる、身を割く様な時間や機があるか、どうか。
話に聞けば、お体を、臥してゐるとか、洩れ聞いてゐます。はるかに、ちかく、こんな言葉はあるか、どうか判りませんが、志功が新しく、つくつて、おからだの全快を祈つて止みません。
無礼者、理不尽者の志功は、この土地の風光をまた美作の人情を、また志功の専門の、板画や絵の事を讃する様、文を書けと言はれたのを、書くも書き、あの女への我儘おもひを臆面もなく、ヌケヅーヅーしく書いたのです。マア正直に言つてその想ひに負け切つたのですよ。これも新聞社に、許していたゞきませうか。
「天衣無縫の文」と、これでも現文壇評論家Y氏に書かれた志功の文ですが、かう負けては駄目ですね。
もう一度みなさんに許していたゞきませうか。
鶴山城、あの大手門の石組の様に、立派で堂々と、さうして優しく清く、男の「組み」を、組みませうか。
――恋しき君の為ならば、どんな踊でもおどりませう 胸のかざりも上げませう 生命もろとも上げませう ――歌劇カルメンの和訳の内より――
――昭和25、3、5、記――

棟方志功著「板響神」より


関連資料

「惜訪」

河内長野市といっても、柳井邸は、一つ手前の××駅で下車して、左手の山に掛って、坂を登って可成りの道を畠の中に這入って行くのだった。
『随分、静かな所だナ』わたくしは、チャコにそう言ったら、柳井氏は、『これでも家があると思えば近いです』『これじゃ、買物が、大変だから、愛子さんが難儀だろうナ』わたくしは柄にもなく、同情を言ったら、チャコも、『ホントにネ。これじゃ、思うたより田舎ネ』『どうだろう、上斎原とは』『上斎原は、街ですよ。ここでは郵便局まで小半里もあるんですから』『ヘイ!』わたくしは驚いて声も出なかった。
そうしている内に天神様だという社になった道に這入った。
鳥居は石の立派なものだった。その鳥居の上に、一杯に石があがってあった。『入学試験のマジナイだとか、何とか言いまして、よく上手に、あのセマイ上に投上げるんですよ。子供は無我に、石を投げるんでしょうね。よく上げますよ』『天神様は、わたくしは好きだから、拝んで行こう』わたくしは、そう言って賽銭は、チャコが出してくれた。
社を抜けて、本路に来たら、大きな桜の木があって、萬朶と咲いていた。『見事な桜だなァ。これを、今年の花見の積りで観ようヨ』
『愛子が』柳井氏が、そう言っても、わたくしには、判らなかった。チャコは、もう見えて笑顔で、向うから走って来る人に答えていた。近くなって、それが愛子さんだった。
庖丁を持っていたには驚いて、『庖丁とは、驚いたョ』そう言ったら、『アラッ! ほんとうに』そう愛子さんが、庖丁を後ろにしたのだった。
『美加奈は、大阪から帰って来なかったかなァ』『未だに来ません。○○さんが送ってお出ででしょうから』そんな話をしている内にもう門口には、知和伎、伊都伎が、コロコロと出て来た。
『随分、広いんだなァー。これじゃ、大したもんだ。土地も、広いじゃないか......』『そうです。金剛、葛城までが、わたくしの領分ですから、大したものですよ』柳井氏は、威張って見せた。
コギトの肥下氏も、ここまで来る途中の駅からのところに居るそうな話を聞いて、お会いしたかった。あんな、よい方が、矢張り、あの様な、変らないよさで大阪の病院に出ているとの事だった。
肥下氏は、よい方だった。何を、どう思うても肥下氏はよい方だった。お会いしたい。
『柿の木が七本。それから、この松が、見事でしょう』柳井氏は、わたくしが驚かない内に、次々とこの家の周囲から、家に就いてまでを話してくれた。
二軒を一緒に、つないで、玄関を一つ潰した柳井家は、ナカナカの広い家で、わたくしも驚いた。
『この次にも、この次にも部屋があって、まるで迷う様だよ。愛子さん、掃除が大変だろうなあ!』
風呂も、新しく築って広くて気持よかった。
ゴットンゴットンと愛子さんがポンプを押して水を注いでくれてた。
『わたくしは、ぬるまが好きだから、先に貰うかなあー。森本さんにお先だナー』
この柳井氏のお父様が、何度か、足を運んで、この家にしたのを思い出されて泪が出て来た。わたくしは鼻声になって、頃合の湯加減につかりながら、
  〜土佐はよいとこ南を受けて、薩摩颪がそよそよと......
柳井氏の得意の唄を、その本場から乗って来た節廻しも、あわれっぽくなって仕舞った。
愛子氏が、懸命の料理に舌鼓を打って、わたくし達は枕を並べたのだった。
美加奈、知和伎、伊都伎の歌声で目をさましたが、今日は雨だった。
柳井夫妻の、自慢の「七本の柿の木」は、雨で若葉が綺麗だ。柿の若葉という程あって、ほんとうに綺麗だった。
『裏流、行薹子の御点前で一服、頂戴するかナ』わたくしは愛子氏にねだった。
朝の御茶も美味しかった。
前にも書いたが、開けない玄関には、鎧兜が、真暗い中にかざられてあった。『槍一筋って看板だかナ』『それ程でもないけれども、マアマアってところです』、柳井氏は、あの重々しいバスの声で、うれしそうだった。
『桜の別れッてのか、昨日、あの満開の桜のところまで、みんなにおくって貰って帰ろうかなア』『いや、僕は、大阪まで参ります』柳井氏は、そう言って淋しがりやのわたくしに力をつけてくれた。『愛子さん、また来る。元気一杯で。ナカナカ絵どころではないけれども、たまには、素描でもする時間を無理に見付ける事だネ。そうする事が、また、いそがしい中の本当のいそがしさが生むいそがしさってのだからネ』わたくしは、自分の柄も無く、そんな事を言った。
『そうなると、いいんだけれども......』
雨は、ますます降って来るので、まあまあ立とうというので、帰りの支度をした。
『わたくしも、そこまで、あの桜の下まで送らせてください』『雨の中に......』『雨だから、参ります』そんな事で一家がおくってくれる事になった。
昨日、何の気もなく横に眺めて上って来た坂中のこの桜も、下りになった坂上から小見下しに見て、矢張り名木の様に、雨に満開に含んで見事だった。
『さあ、ここまで、この桜の花を惜しむ様に別れるって乙なもんだ』わたくしは、口とは別になって、ほんとうに泣いて仕舞い、走る様になった足を止める事出来なくなって、一人先達って仕舞って居たのだった。

棟方志功著「板畫の肌」より

柳井道弘 略歴

1922「(大正11)年岡山県上斎原(現鏡野町)に生まれる。1940(昭和15)年上京、萩原朔太郎に師事して明治大学文芸科に入学。朔太郎の紹介で保田與重郎を訪ね、同年棟方志功とも会い、保田・棟方両師は柳井の生涯の師となる。
この年、萩原、保田両師を顧問に山川弘至らと同人誌『帰郷者』を発行。卒業を半年くりあげられ1942(昭和17)年10月より現役兵として入隊。以後兵舎から詩文などを冊子『コギト』に発表。終戦後除隊し郷里上斎原で農業に従事しながら、保田らの冊子『祖国』に同人として詩を発表した。1954(昭和29)年、戦中の作品『花鎮頌』(はなしづめうた)を日本芸業院から出版、棟方志功が板刻し巻頭を飾っている。2002(平成14)年春秋詩社から復刻版を刊行する。

日本文芸協会、日本現代詩人会、会員。
他の著書に詩集『相聞』『声』『むらぎも』『宇宙のもっと深いところから』。小説『運命』。伝記『聖徳太子』『良寛』他。随筆『満天の星身をふるはせて』。


4月中旬。東京では桜が過ぎて新緑の嫩葉(わかば)になっていた。小雨のバラつく雨の日の午後、私は先生の病室で半日を過ごした。
数え年18歳の少年の日から、53歳の今日まで、30数年に及ぶ会い難い知遇を思い、巨大な森林を想わせる先生の芸業のかずかずをあらためて讃仰しながら、私の心はやはり切なくかなしかった。
やがて巴里爾君もやって来て、先生が病院でお描きになった書画に印を捺すことになった。先生は寝台から起き出され、机の前に正座される。巴里爾君が差し出す一枚一枚の書画に目を近づけて、舐めるように検しながら、気に入らぬ作品はその場で引き裂かれ、残った作品一枚一枚について落款の位置を示され、巴里爾君が捺してゆく。やっと終って、立ち上がりかけた先生がよろめかれ、支えようとする私を制して、しばらく両手を寝台の縁に当てて
痩せ細った体を支え、足がしびれてと呟きながら、ゆっくりと寝台に上がって横になられた。
「酒はないかな。柳井に呑ませるといいんだが」呟くような先生のお声であった。「じゃ、僕が」と、巴里爾君が駆け出して酒を買って来た。
「柳井さん、パパの給食を肴にするといいわ。パパはここの給食が食べられないのよ」奥さんはそう言って、夕餉の支度にかかられる。
次第に夕闇が迫り、巴里爾君は劇団の仕事で出かけた。私は奥さんにすすめられるままに、先生の給食を肴にひとり酒を飲んでいた。すると、寝ていられた先生も起き出され、「わ(私)にも一杯」と盃を出される。先生と盃を挙げ、ふだんは酒をお飲みにならない先生が、ちびちびと酒をお吸いになる姿を見つめながら、私は万感の想いにようやく堪えていた。今生での別盃であった。
「増上寺の鐘が、いまに聞こえるから、聞いてゆくとよい」先生はそう仰言って、またそろそろと寝台に上がってゆかれた。
やがて増上寺の暮六つの鐘が、雨の上がった夕べの空を渡って響いてくる。
私は長い信従の日々を噛みしめるように思いながら、盃を舐め、今生の名残りのような鐘の音を腸(はらわた)に聞いていた。(文:柳井道弘氏)

講談社「棟方志功全集12 雑華の柵」より


昭和19年春、画家を志して上京。当時、岡山48連隊にいた柳井(現在の主人)の言葉に従い、代々木の棟方先生をお尋ねした。先生は「柳井道弘氏の奥さんになられる方だって」と、奥さんに紹介して下さった。それから、まるで家族のように可愛がっていただき、奥さんはきまって「愛子さん、もうすぐ雑炊ができるから食べて行きなさいよ」と、押し上げポンプのついた井戸を埋め残した食堂で御馳走して下さった。私は何もお持ちするものがないので、勤めていた新宿裏駅に近い淀橋第一小学校の給食用の長い大きなパンを持参した。当時、始業時にでも空襲がはじまると、学校中のパンが残ってどうしようもなかったのだ。先生が御自分でお子さんのために描かれた鯉のぼりをちょうど降ろしていらっしゃる時など、私の抱きかかえたパンの包をごらんになって、「最近子供が、愛子さんの顔が食パンに見えだしたと言っているよ」と、おどけられた。
戦争も次第に熾烈を極め、憂色を深め出した6月中旬、隊にいる柳井から「西太平洋方面行きが決ったから、2日後に結婚式を郷里上斎原で挙げる。棟方先生にかねがねお願いしていた仲人になっていただく件についてお尋ねするように」との知らせがあった。結婚式にのぞむ花嫁でさえ、無用の旅はするべからずというお達しで、なかなか切符を買う許可が下りず、下りても次にその切符がまたなかなか手に入らない時代であったし、もし三人の切符を入手できたとしても、混乱を極めた日本列島を縦断して、はるばる岡山美作の山奥にまで行っていただくことは、到底望めないことであった。先生は、「かねがね用意して置いたこの軸を、棟方と思って式を挙げてほしい」とおっしゃって、"常緑"の軸を手渡された。私はそれをかかえてモンペ姿のまま、無一物で東京を発った。そして、上斎原の柳井の床の間にその"常緑"を掛けさせていただき、簡素ながら無事式を挙げることができた。
終戦後、ようやく落ちついた生活になれて来た昭和42年春、鎌倉山の棟方邸に、棟方先生御夫妻に仲人していただいた者達全員が子供連れで御招待をうけ、奥様手ずからお作り下さった御料理をいただき、数々の記念品まで頂戴した果報者達が御夫妻をかこんだ写真がある。皆々それぞれに仲人していただいた当時を想い、この有難い御恩に感激したことであった。
その時、琴を弾かせていただいた娘は、その後、芸大の恩師のお世話で入手した琴の名器に「野分」と命名していただき、それをそのまま琴に彫り込ませていただき、自分の主宰する琴の会も「野分」と名づけ、先生の御恩をいまだにいただいている。そんな御縁で、娘美加奈の結婚式には、再び仲人をお願いすることができ、親の時には果せなかった御夫婦お揃いの御臨席をいただき、奥様に手を執られ、式場に向う娘の姿をながめながら、親子二代にわたる有難い不思議な御縁に、胸のふさがる思いであった。(文:奥様の柳井愛子さん)

講談社「棟方志功全集12 雑華の柵」より