棟方志功・柳井道弘 略歴および資料
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棟方志功 略歴 |
1903年(明治36)年青森県生まれ。鍛冶屋に生まれ、小学校を出ると青森地裁の給仕になり、絵画を独学で勉強。1924(大正13)年に上京し、1928(昭和3)年の帝展で初入選した。この年から、古川龍生、川上澄生の影響で版画の道に入り、1936(昭和11)年国画展に出品した「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と交流する。 |
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資料2 |
はるけくも北に海ある国に来て南になりぬ雪の山々 谷崎 あれはなかなか面白い。 谷崎潤一郎 歌 棟方志功 板「歌々板画巻」より 美作路 他 棟方志功 昭和27年2月他 美作は旅にしあれどかの君の在(いま)せし津山今は君なし どの道( )も雪道となり暮れゆくや 大寒を美作にして別れゆく |
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資料3 |
灼 楝 記 ――雄神川、川辺凉しも吾妹子に楝(あふち)花咲く川辺凉しも、元義の歌 灼楝記(しゃくれんき)と読んでいたゞきます。―― 津山の御方ならもう「あの、あゝあの女か、成程さうか」と目に覚えあることと存じますよ。他所者の志功でさへ一目で参りましたからね。 今、その女の、居られる鶴山城そばから、十里弱のところ、奥津の湯元に来て、想ひを詰めて居るんですが、想い詰めつてココロも、ありがたいもんですね、一人だけにも関係なくアクビですからね。 「カロクダイスケサンナンデシンジヨフヤシタ......」つてわけで、よい気持に騒いで自分も忘れて、ねむつて仕舞ふなんて飲める方の徳と、有難さですね。 バスが、この半年そこそこで、仲々、便利になつて急行に乗れるのは公私ともにまた便利になりましたね。 キンマを引いて来た青年にぶつかつて、重い荷物を救うていたゞきましたよ。 三畳台目の席に広蓋の古芦屋でせうか、よい沸音(にいね)を立て湯加減も頃合ひでした。 棟方志功著「板響神」より |
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関連資料 |
「惜訪」 河内長野市といっても、柳井邸は、一つ手前の××駅で下車して、左手の山に掛って、坂を登って可成りの道を畠の中に這入って行くのだった。 棟方志功著「板畫の肌」より |
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柳井道弘 略歴 |
1922「(大正11)年岡山県上斎原(現鏡野町)に生まれる。1940(昭和15)年上京、萩原朔太郎に師事して明治大学文芸科に入学。朔太郎の紹介で保田與重郎を訪ね、同年棟方志功とも会い、保田・棟方両師は柳井の生涯の師となる。 日本文芸協会、日本現代詩人会、会員。 4月中旬。東京では桜が過ぎて新緑の嫩葉(わかば)になっていた。小雨のバラつく雨の日の午後、私は先生の病室で半日を過ごした。 講談社「棟方志功全集12 雑華の柵」より 昭和19年春、画家を志して上京。当時、岡山48連隊にいた柳井(現在の主人)の言葉に従い、代々木の棟方先生をお尋ねした。先生は「柳井道弘氏の奥さんになられる方だって」と、奥さんに紹介して下さった。それから、まるで家族のように可愛がっていただき、奥さんはきまって「愛子さん、もうすぐ雑炊ができるから食べて行きなさいよ」と、押し上げポンプのついた井戸を埋め残した食堂で御馳走して下さった。私は何もお持ちするものがないので、勤めていた新宿裏駅に近い淀橋第一小学校の給食用の長い大きなパンを持参した。当時、始業時にでも空襲がはじまると、学校中のパンが残ってどうしようもなかったのだ。先生が御自分でお子さんのために描かれた鯉のぼりをちょうど降ろしていらっしゃる時など、私の抱きかかえたパンの包をごらんになって、「最近子供が、愛子さんの顔が食パンに見えだしたと言っているよ」と、おどけられた。 講談社「棟方志功全集12 雑華の柵」より |