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本源禅寺の創建は
なんと南北朝時代!

興国元年(1340年)、南北朝時代に夢窓国師の発起により足利尊氏が国家安全を祈願して安国寺が各地に創建されました。そのうちの一つが「東海山 本源禅寺」の前身となるお寺、「美作国安国寺」で現在の津山市神戸に創建されました。

「東海山」とはなんぞや?

日本では元々霊山と呼ばれる山林で修行をし、山に寺院を建てることから寺には「山号」をつけるそうです。 「東海」は中国から見て「日本」のことで、「東海山」は「日本の山」という意味です。 また、大きなお寺でたくさんの建物を持つ場合には個々の建物のことを「院」と呼びます。津山で最も多くの院を持っていたのは長昌山 妙法寺で9つの院があったそうです。


森忠政公の菩提寺に。

森忠政公は美作国主として入封後、院庄の旧美作守護所(現在の作楽神社)の近くに住居を構えました。そして、「美作国安国寺」を森家の菩提寺と定め、当時美作国の中心だった院庄に城を建てることに決めました。
しかし、忠政公が各地へ赴き奔走している間に家臣同士が喧嘩の上斬り合いになり、亡くなるという事件が起こるのです。
この事件があってから後、縁起が悪いという理由で現在の鶴山に築城を開始。同時に菩提寺である安国寺を小田中(旧出雲街道沿い)へ移し、「萬松山安国寺」 としました。
その三年後、現在の場所に寺が移され「萬松山龍雲寺」と改名。元和年間に「東海山」と山号が改められました。

「龍雲寺」から
「本源寺」へ。

森忠政の亡くなった五年後の寛永十六年(1639年)、二代目藩主長となった長継公は忠政公の御霊屋(みたまや)を「萬松山龍雲寺」(現在の本源禅寺)に建立します。
そして天和三年(1683年)の忠政公の五十回忌に御戒名である「本源院殿前作州太守先翁宗進大居士」にちなんで、寺名が「龍雲寺」から「本源寺」に改められました。

なぜ本源禅寺の門は2つあるのか?

徳川家から厚い信頼を寄せられていた森家でしたが、跡継ぎが次々と病に倒れてしまいます。津山藩森家は跡目相続不能による改易となり、津山藩主は松平家十万石に代わります。
森家四代95年間の間最大二百石の寺領があり、総門から中門までの参道両側は蓮池や松林のある大きな庭でした。18世紀初頭の城下防衛は西側に重点が置かれており、龍雲寺の広大な境内は西側の重要な防衛拠点ともなっていました。また当時は総門前の曲がり角は本源寺への入り口であることから「本源寺口」と呼ばれていたそうです。
津山藩主が松平家に代わった後、藩財政の事情により寺領を減らされてしまいますが、泰安寺・妙法寺と合わせ「津山三箇寺」と言われて諸寺の上におかれ、以後森家・津山藩松平家両家の庇護を受けて明治を迎えました。
その後、昭和22年の農地改革によりかなりの寺領を失ってしまいます。現在は総門と中門の間に保育園や家屋が建っていますが、今も残る2つの門は当時の寺領の広大さを物語る証だったのです。

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