「作楽神社」と後醍醐天皇
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▲作楽神社入り口 |
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元弘2年(1332)に後醍醐天皇が逆臣北条高時のために隠岐に流される途中、この館にお泊りになり児島高徳が大門の傍らの桜の幹を削って詩をしるし、天皇をお慰めした故事は、後世の人びとを感動させました。東山天皇の貞享5年(1688)津山藩森家の執政(家老)長尾勝明が建碑して高徳の忠誠を顕彰し明治になってから作楽神社が創建される基を作りました。碑の漢文は白文ですが、訓読すると次の通りです。 元弘の乱に、後醍醐帝隠州に狩し 翌華此の地に次りたまふの日 児島備後三郎高徳密かに宿営に来り 桜を削りて書して云ふ、天勾践を空しうすること莫かれ時に范蠡無きにしも非ずと、事、口碑に詳し。此を賛せず。今、邑民伝へ称すらく、往昔の桜、泯滅して既に旧し、厥の地曽て東大門と号す。近ごろ其の遺蹤に困りて、新桜一株を栽ゑ、又石に刊みて渠の忠誠を旌し、且つ人をして行在の蹟を織らしめんと欲す。銘に曰く、皇帝赫怒して、鳳駕西に翔けたまふ。天神聖を翼け。爰に賢良を降す。片言を桜に誌して。百世に芳を流す。分を明らかにして賊を討ち。忠をケイして王に勤む。義気を石に刻めば。烈日厳霜のごとし。 |
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▲後醍醐天皇 ▲後醍醐天皇の碑 (津山市種のごちゅうれんじょう)天皇が輿を(こし)を止めて休んだと言われる所にある。 鎌倉幕府に捕らえられた後醍醐天皇は、隠岐(島根県)へ流されることになり、1332年の春、京都を旅立ちました。天皇と、天皇の守りを固めた幕府の武士500人あまりの一行は、播磨(兵庫県)から美作へと通り過ぎました。「太平記」には、この時天皇を奪い返そうとした備前の武士、児島高徳の物語が記されています。備前の船坂峠で待ち伏せしていた高徳達は、道すじの違いに気づき、美作の杉坂峠に来た時には、天皇はもはや通過した後でした。そのため、高徳ただ一人、後を追って天皇宿泊の院庄館にたどりつき、ひそかに桜の木を削って十字の詩を書き、天皇を励ましました。 |
▲児島高徳像 ▲児島高徳像 ▲碑 「太平記」と児島高徳 児島高徳は忍びの頭だった。 「天莫空勾践 時非無茫蠡」 (天勾践を 空しゅうする莫れ 時に茫蠡 無きにしも非ず) これはその昔、中国で茫蠡と言う家来が、敵にほろぼされかけた勾践という王を大変な苦労のすえ助け、国を再興させたという物語を例にして、こういう忠義な家来もいないわけではありませんよと、天皇を励ましたものです。中国の古典に詳しかった天皇は、これを見て微笑まれたといいます。 『わたしたちの津山の歴史』」より抜粋 ▲児島高徳の銅像の右横の庭にはお花が植えてありました。 ▲周りは田んぼです。 |
▲噫忠義桜十字詞之碑塔 ▲整備資金のお願い看板がありました。 ▲高徳せんべいが売られていました。 忠義桜 1 桜ほろ散る院の庄 遠き昔を偲ぶれば 幹を削りて高徳が 書いた至誠の詩(うた)がたみ 2 君のみ心安らかれと 闇にまぎれてただ一人 刻む忠節筆の跡 めぐる懐古に涙湧く 「天光勾践を空しうするなかれ 時に范蠡なきにしも非ず。」 3 風にさらされ雨に濡れ 文字はいつしか消えたけど つきぬほまれの物語 永久(とわ)に輝く花のかげ |
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