>>津山の秋祭り特集トップ |田熊八幡のお祭り|徳守神社の大神輿| ※この記事は2011年の特集です。 農村歌舞伎の回り舞台があることで名を馳せる田熊八幡神社。秋の訪れとともに秋祭りが盛大に開かれます。 「オイサー」「オイサー」と威勢のよい掛け声が響き渡り、町中が活気づきます。田熊八幡神社を中心とした、この土地ならではの魅力ある祭りをご紹介します。 ドドーンドン・・・今年も宵祭りの太鼓の音が響く。町内の当番に当っている役員や若者が夜を通して太鼓を叩き、かがり火を焚く。午前2時頃になるとかなり冷えこみ、たき火で暖をとる。夜が明け朝7時頃から町内の人々が集まり始める。 午前9時、田熊八幡神社で祭礼をすますと、豆しぼり姿の若者たちは約400 kgのお神輿をかつぎ上げ、境内をねり歩く。その後お神輿は、傾斜約30度の坂道へと進む。最初の階段は、傾きが40度くらいはあろうか・・・。 ここが最初の難門。若者たちも、一歩一歩慎重にお神輿を前に進める。 きつい階段を過ぎるとさらに長い下り坂がまちかまえる。3分の2くらい過ぎると鳥居がある。ここを無事に通過すると、お神輿は急に速度を上げ、威勢よくいっきに下に降りていく。こうして、田熊八幡神社の秋祭りがいよいよ本番を迎える。 最初に坂を下ったら、御旅所に寄る。その後神事場で祭礼を受け、一休み。神事が終わると、そこでは、巫女さんによる「浦安の舞」が奉納される。 お神輿は、神事場を出、各町内を練り歩き、そして午後2時30分頃八幡の下に着く。若者たちは、ここでひと息つき最後の大仕事へと備える。傾斜30度以上ある長い長い坂をお神輿をかついで上げる。途中で前の1人でも軽く足を踏ん張ると神輿は全然進まない。「コリャ〜誰なら、足を踏ん張っとんのはっ!!」と下から大きな声がする。 オイサーオイサーのかけ声に合わせて、少しずつお神輿が上がって行き、3分の2くらい上がると、気力を失う急階段が待ち構える。それでも若者たちは力を振り絞ってお神輿を上げる。最後の階段を登ると、仕上げのねりをする。 お神輿が鎮座すると、豆しぼりの若者たちは達成感と満足感に満ちた素晴らしい面持ちとなり、お互いの肩を叩き合って労をねぎらう。 昔の神事場には出店が両側にずらりと並び、子どもの頃はこの出店でおもちゃやお菓子を買ってもらうのが楽しみだった。今は出店は出ていない。 (文:N.Y) 田熊神社へ向かう、約30度はあろうかと思われるこの急な坂道を400kgのお神輿を担いで駆け上がる様は、迫力もあり見応え十分!50人の担ぎ手達が、この坂を30分かけて登り降りします。 田熊八幡宮の祭りでは、神輿、獅子舞、天狗、河童、天傘、太鼓が揃って登場。これだけ揃っている祭りは珍しく、「この辺りのお祭りでは、田熊だけっ!!」と胸をはって語ってくれました。 年によっては、お神輿はルートをはずれ「わらぐろ」を倒したり、川に入ったりとあばれるまわる年もありるそう。担ぎ手達の熱気が一層祭り全体を盛り上げます。 わらぐろとは...稲刈りが終わった後、稲わらをたばねて、丸く積み重ねてあるもの。昔は田んぼのあちらこちらに見られた。今はコンバインでカットされ、わらぐろはめったに目にすることが少なくなってしまいました。 明治の初め頃、神輿を作ったと伝えられています。当時、鉄道は津山口駅までしかなく、お神輿を運搬する方法として、そこから何十人もの人々が担いで田熊八幡神社まで運んだそうです。 田熊八幡神社は、旧田熊村下分の小高い山の上に鎮座し、祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと)・足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)・武内宿爾命(たけしうちのすくねのみこと)。 社伝では弘仁2年(811)の創建。本殿は寛文4年(1664)森長継(もりながつぐ)の再建と伝えられています。 「国指定重要民俗文化財」となっている境内にある"農村歌舞伎の回り舞台"は、美作地域の農村歌舞伎芝居が非常に盛んであったことを物語る貴重な民俗資料となっています。 「田熊八幡神社重要書綴」によれば、明治4年(1871)の建立と推測され、大工の野上米右衛門らによって建築されたました。 内部の舞台中央には、特殊な木車装置を有する直径4mの皿回し式の回り舞台(盆の上面を足で踏み廻すので「足廻し」と呼ばれる)を設けるなど、太夫座、二重台、花道等、各種の機構を備えた本格的な舞台であったということが分かります。 奈落(地下)の柱に残された様々な落書きや墨書から、播磨の旅役者を頻繁に招いたことや、各種の出し物が演じられたことも分かっています。 ※詳しくは津山瓦版『田熊八幡宮』の取材記事へ 上へ戻る facebookでシェア Tweet mixiチェック 管理用