鶴山城址碑(鶴山公園内)
城のとりこわし
津山に郵便局ができたのは明治四年、そのときは郵便取扱所といっていた。局の名になったのは明治八年正月であった。明治六年には新しい紙幣ができて旧藩札の通用が停止された。北条県では十一月六日から三日間、吉井川のぞきの川原で四百二十四万枚の藩札を焼いた。
衆楽公園の設立許可は明治六年四月のこと。津山城のとりこわしも、このとしから準備がはじまった。というのは、二月二十八日付けで大蔵省へ出した北条県からの届けによると
城郭存廃未だ御達し之れなく候へ共、昨夏陸軍省官員巡回のみぎり、やぐら門、石壇すべて払い下げに相成候条入札差し出すべく旨、指示につき去秋取りまとめ、同省へ送達に及び候間、御省へ御引送り相成候儀と存じ奉り候、就いては廃城御決定必然の儀と存じ奉り候。郭内地所払い下げ等御規則照準取計申し候。
とある。こわす段取りを急いでいることがわかる。存置しようという考えは毛頭なかった。そして、実際に取りこわし工事は明治七年六月からであった。約十ヵ月をかけて津山城は完全に姿を消した。