明治150年記念「洋学資料館所蔵資料から見た文明開化と美作の医学」
描かれた文明開化
明治になると、浮世絵師たちは、文明開化という新しい時代の世相を描きました。これらは「開化絵」と呼ばれ、西洋風の絵画表現が取り入れられ、目新しいものや風景や生活などが好んで題材に選ばれました。
江戸時代には政治批判、風紀風俗の乱れ、奢侈という3点が検閲により取り締まられ、幕府に対する批判が少しでも疑われると処罰されました。また、徳川家や同時代の事件・出来事を題材にすることは禁じられていました。しかし、1875(明治8)年に検閲が廃止されると、最近の事件も題材にすることができるようになり、ジャーナリズム的要素が加わることになります。そして、以前なら政治批判とも取られかねなかった、天皇や皇族の姿なども描かれるようになりました。
やがて、写真や新聞など新しいメディアが台頭し、浮世絵は衰退していきます。「開化絵」はその終焉を飾ったのです。
↑ 上記絵は、(参考)新吉原 尾張屋三階之図 明治時代 三代目歌川国貞
新吉原にあった尾張屋を歌川国貞(三代目)が描いています。明治時代になると、安価な化学顔料を用いた浮世絵が描かれました。特にアニリン紅を多用したものは「赤絵」と呼ばれ、その毒々しいまでの赤色はこの時期の浮世絵の特徴となっています。この絵にも見られる鮮やかな赤色は当時の人々にとって最も身近に感じられた西洋の息吹として捉えられたといわれています。
↑ 皇居での養蚕を描く ↑ 内国勧業博覧会の様子
・皇居での養蚕を描く 新刻蚕養之図 1871(明治4)年 三代目歌川国輝
昭憲皇后(明治天皇皇后)が、江戸城内の吹上御所の庭において、蚕養を行っている様子が描かれています。皇后・女官のほかに上野(現在の栃木県)から4人の女性が選出されたと記されています。
・内国勧業博覧会の様子 東京名所之内 上野山内一覧之図 1881(明治14)年3月 河鍋暁斎
産業の発展を促すために、東京上野で開催された、第二回内国勧業博覧会の様子を描いた錦絵。画面左後方に当時箕作秋坪が館長を務めていた教育博物館(国立科学博物館の前身)が描かれています。
↑ 天皇の行幸を描く ↑ 直近の事件を舞台化
・天皇の行幸を描く 御行幸所発輦之図 1880(明治13)三代目歌川広重
1868(明治元)年から始まった、明治天皇の地方巡幸における、行在所からの出発風景を描いたものと思われます。江戸時代には、徳川家に関する浮世絵は厳しく禁じられていましたが、明治になると、天皇の行幸はしばしば題材となりました。
・直近の事件を舞台化 綴合於伝仮名書 1879(明治12)年 豊原国周
「毒婦」と呼ばれ、明治12年に処刑された「高橋でん」の事件を扱った歌舞伎演目の役者絵。徳川治世下では、同時代の事件を演劇化することは厳禁でしたが、明治になり検問が廃止され、起って間もない事件も扱えるようになりました。
庶民に勤勉・努力を勧める 教訓言黒白 1871(明治4)年 昇斎一景
昇斎一景は経歴不詳ですが、風景画や開化風俗画を多く描いています。この資料は、ことわざを絵解きしていき、幸運・不運を十図で構成。公への忠や孝といった儒教的観念を説くのではなく、個人的な勤勉や立身と言う近代的な価値観による教訓が述べられています。
↑ 馬の耳に念仏 ↑ おしりの用心
↑ 山師の玄関 ↑ 正直の頭に神やどる
↑ 悪志千里 ↑ 幸事門をいでず
↑ 悪銭身につかず ↑ 命の洗濯
↑ 「天のあみ(網)」 ↑ 天のめぐみ
↑ よわり目にたたり目 ↑ 目の寄る所へは玉も寄る
(文:津山洋学資料館説明より)(2018年3月23日撮影)